ストリートチルドレン

ストリートチルドレンを考える会
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2007年12月発行のニュースレターより

11.24メキシコ・ストリートチルドレンと出会う旅・報告会に参加して
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平田敬子
 静かな熱気を感じた3時間だった。報告会は初めてだったが、ストリートチルドレンを考える会との出会いは、昨年6月に遡る。同会が主催したチャリティライブで、知人のお嬢さんがアルパ(ハープ)を演奏するというので聴きに行った。そこで工藤律子さんにお目にかかり、知人を通じてご挨拶した。同じ杉並区にお住まいとお聞きし、初対面にも関わらず親近感を覚え、またこんなに華奢な女性のどこにあのようなエネルギーがあるのだろうと驚きの気持ちでお話したことを記憶している。同時に、工藤さんとはまたいつかどこかでお会いする機会があるのではないか、いや、そのような機会を作れるのではないか、という期待を持った。
 私は平成14年から、杉並区教育委員会の委託で「学校教育コーディネーター」として活動している。区立小中学校を支援するため、主に「総合的な学習の時間」で、教員の求めに応じ、学校と外部人材の橋渡しや、授業そのものの企画を提案するのが仕事だ。今や学力低下の原因かのように見られ風当たりも強い「総合」だが、教科にとらわれず、あるいは各教科を横断的に扱い、子ども自らが課題を見つけ、調べ、発表する授業は、やり方さえ工夫して取り組めば、大きな成果を得ることができると信じている。決められた教科書はない。教員は子どもの発達や興味に応じ、環境、福祉、国際理解、伝統文化など、様々なテーマで授業を組み立てる。その際に協力してくださるのが、地域のおとな(杉並区では「学校サポーター」と呼ぶ)だ。企業やNPO、その道のプロ、○○の達人もいれば、昔を語ってくれる古老もいる。経験豊富な方々に接し、子どもたちは教科書以外から多くのことを学ぶことができる。そのパイプ役
がコーディネーターだ。
 自分の紹介はここまでにして、本題に戻る。工藤さんとの再会はこの秋に実現した。私が担当する小学校の6年生が、「平和」をテーマに学習することになった。担任から相談を受けた私は、授業のゲストとして迷わず工藤さんを紹介した。「平和」を考える際、私たちは無意識に、その対極にある「戦争」を思い浮かべる。だが現代の小学6年生に戦争を実感することができるだろうか。また、戦争のない状態が果たして
「平和」なのだろうか。私のそんな思いは、担任も同じだった。こうして、工藤さんの小学校での授業が行われた。今回の報告会へのお誘いは、こうした経緯からだ。
 この日の報告者6名は、この旅で、濃密で貴重な経験をされたようだ。本を読んで得た知識と実際に現地を訪れて体験したことでは、理解に大きな差があるのは言うまでもないが、旅に参加した動機は様々であっても、皆さんのお話を伺って感じたのは、決して観察者として研究対象を見るような姿勢でそこに居たのではないということだった。同じ人間として、などという言い回しでは、私自身の見識が疑われそうだが、彼らがメキシコという国と、メキシコの人々に、実に真摯にひたむきに向き合っている様子は、「日本の若者、やるじゃない!」とでも言いたい感動を与えてくれた。
 メキシコの状況は悲惨だ。親から子へ、その次の世代へと、貧しさの連鎖には出口がないようにも思える。支援する人々の献身的な活動をもっても、現状から抜け出すことができるのは限られた人数でしかない。国民を充分に守れない国があるとき、世界はどんな行動をとればいいのだろう。子どもを宝物のように扱う国がある一方で、親から見離され、路上で必死に生きる子どもがいる。様々な社会問題を解決しようと政府は動いているのだろうが、その間にも多くの子どもが生まれ、成長し、大人になってゆく。すべての誕生が祝福され、慈しまれて育ち、夢も希望もある将来へと思いを馳せることのできる社会は、いつ訪れるのだろう。その国の経済力や国際競争力が向上すれば解決する問題なのだろうか。そう考えたとき、恐ろしい予感(未来図)が頭をよぎる。
 日本はどうなのだろう。工業製品に囲まれた豊かな先進国日本で、子ども、高齢者、働き盛りが自ら命を絶ち、若者が職に就けず、広がる経済格差は学歴格差を生み、行き場のない人々がネットカフェで寝起きする。でも社会は、この現実に向き合ってはいないように思える。そんな現実は「ない」と思い込もうとしているようにも見える。
「ない」のだから、対策も支援の必要もない。「ない」ことにされてしまっている現実、「いない」ことになっている弱者。大学4年の男子学生の報告は、強く印象に残った。もはや子どもの年齢ではない路上生活の青年に出会った彼が、日本の同世代とわが身を思って「鳥肌が立つ」程の恐怖を感じた、という感想を聞き、考えたくはないが、私の心に闇が広がっていくようだった。
 メキシコと日本を比べてもあまり意味はないのかもしれない。国の成り立ちや歴史、主義や制度の異なる二国の違いを論じて見えてくるものがあるとしたら別だが。でも、子どもはどうか。どんな国に住み、どんな環境で暮らしていようと、子どもには等しく幸せを求める権利があるはずだ。それは本来、親が、親がいなければ他の誰かが、大切に守って手渡してあげなければいけないものだ。
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 おとなとして子どもに、私も手渡すことができるだろうか。まずは伝えること。メキシコを旅した彼らの言葉を、次の誰かに伝えることから始めようと思う。報告してくださった皆さん、工藤さん、ありがとうございました。
 (ひらた けいこ・杉並区学校教育コーディネーター)

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