ストリートチルドレンを考える会
…子どもたちの未来のために……
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2007年11月

2007年11月10日

アジア人権賞受賞!ゴミ山の麓で活動するフリースクール「パアララン・パンタオ」

  アジア人権賞受賞記念 ゴミ山の麓で活動するフリースクール
           「パアララン・パンタオ」代表と話そう!

 フィリピン・マニラ首都圏にあるゴミ山の麓で暮らす貧困家庭の子どもたちのためのフリースクール「パアララン・パンタオ」。この学校が、私たちの会の推薦状により、見事「アジア人権賞」(アジア人権基金主催)を授賞することになりました。ゴミ山に生きる人々が子どもたちの未来のためにどう闘っているのか、同スクール校長、レティシア・レイエスさんから直接話をききませんか?   

 日時    12月8日(土)午後6時15分〜8時50分
 場所    東京・阿佐ヶ谷地域区民センター 第1集会室 
 参加費   350円(会員および共催団体の会員は200円)
 共催    パヤタス・オープンメンバー、世界子ども通信プラッサ
 お問い合わせはこちら
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パアララン・パンタオとは?
フィリピン、ケソン市パヤタスのゴミ山周辺、および隣接するリサール州モンタルバ
ンの再定住地(パヤタス他首都圏のスラムから移住させられた人たちの居住地)の貧
困家庭の子どもたちへ、基礎教育を提供するフリースクール。パヤタス校(パヤタス
のゴミ山の麓)とエラプ校(モンタルバン)の2校がある。校長は、レティシア・B・
レイエスさん(67歳)。パヤタス在住のレイエス校長が、貧困や出生証明がないた
めに学校に通えない近所の子どもたちに勉強を教えたのが、学校開設のきっかけ。行
政の援助はなく、国内外のNGOや支援者の援助によって運営を続けている。現在、
生徒数は計300名ほど。校長以下約10名の教師・スタッフが、幼児教育、小学校
程度の教育を行なっている。99年からは、小学校、高校、大学への進学を希望する
生徒に奨学金を提供している。

Posted by at 19:33

2007年11月12日

2007年11月発行のニュースレターより

グアテマラからの手紙 その3 

田中健紀(会員)
 今月は、先月ご紹介したのエデュケイター、グレンダさんにお話してもらいます。彼女にメッセージがありましたら、ぜひ会のほうへメールで!
     
 私はグレンダ、27歳、グアテマラの首都グアテマラシティでも結構、物騒だと言われる18地区で、夫、子ども3人と一緒に住んでいるの。そう、「モホカ」との出会いは、(「モホカ」の創設者)ヘラルドと路上で会った1996年のことだったわ。「モホカ」に遊びに来るように誘われて、ある時期から通って勉強するようになり、そのうちにボランティアをするようになって、働き始めたの。
 ボランティアとしての最初の仕事は、路上にいる女の子たちを支援すること。3ヶ月ほど経験を積んだわ。次に、月に2回開かれている「以前路上生活をしていた女性を対象にした会(Quezalitas)」で、子どもの面倒をみたり、イベントを手伝ったりした。5ヶ月ほど働いたわ。それで、そのグループのリーダーになったの。
 女性たちは子どもを連れてきていて、私の子どもも通っていたわ。この会で心理的セラピーなどを受け、更に学校に通うための奨学金をもらった。そしてある日、コーディネイター(元路上の子どもで、一定の勉強やボランティアを行った後、職員になる)の選挙で、選ばちゃったの。給料をもらえるようになって、うれしかったわ。
2003年の9月1日、その日から私は、職員であるコーディネイターになった。それから2年後には、コーディネイターの代表に選ばれたのよ。
 今路上にいる子たちには、チャンスをあげたい。人間としてストリートチルドレンでいることは幸せな状態じゃないから。みんなが現実を知ることが重要だわ。現在のグアテマラ社会は、ストリートチルドレンに関心がなく、どうでもいい存在だと思っている。
 私?もう二度と路上に戻ろうとは思わないわ。私は9歳の時に家出をしたの。家での虐待がひどくて、いられなかったの。学校もすぐにやめたわ。小学校に行っていたけれど、お金がなくて、ノートも買えなくて、ダンボールに字を書いて勉強していた。みんな貧乏だったけど、もっともっと貧乏な私は馬鹿にされて、悲しかった。
 ママはとてもいい母親なの、でもね、パパは暴力がひどかった。家出をした後は、路上に住んでいた。窃盗や薬物を覚え、何でもやったわ。少年院に6ヶ月入れられたこともある。食べるためには泥棒をするしかなかったから。NGOの人に誘われて、施設で生活したこともある。でも、規則だらけなのが嫌で、すぐに出てきた。
 ヘラルドと出会ったのは、もう10年以上前だけれど、最初は彼のことも全然信じていなかったわ。そんな頃、妊娠してアレハンドラが生まれたの。妊娠中は薬物をやめていたけれど、出産半年後にはシンナー、マリファナ、コカインをまた始めた。やめられなかった。でも、子どものことを考えて、路上を去ることにしたの。薬物はやめられなかったけれど。そうして夫と暮らし始めて、娘が育つのを見ながら、まもなく2人目をみごもった。この時、大切な娘のことを考えて、もう薬物をやめようと決意したの。「モホカ」のヘラルドが、夫が、そして娘が私を導いてくれたのよ−

 グレンダには路上生活時代、大切な親友が3人いた。その一人ジョハナは、薬物依存で死んだ。イシスは薬物でおかしくなりながら、路上に住み続けている。サラは「モホカ」でグレンダの同僚だ。
「もし、ヘラルドらと出会っていなかったら、私たちは違う道を歩んでいたと思う。人と人との出会いが人生を彩る。出会いを大切にし、力強く生きたい」とグレンダは言う。
 グレンダは今年9月、10年前から念願だった結婚式を挙げた。白いウエディングドレスをみんなが囲んだ。時に落ち込み、時に力強く微笑みながら、生きてきたグレンダ。私たちも諦めずに夢に向かって歩きたい。
 最後にグレンダから、一言。
「暴力をそれ以上受けないために家出をするストリートチルドレンは勇敢なの。でもね、起きていることを人に伝えて、解決することを望むのは、もっと勇敢なことよ。薬物は絶対だめ。La amistad y Amor(友情と愛情)、私が大好きな、この言葉を送るわね」
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NGO「モホカ」の昼食風景
(たなか たけのり・団体職員)

ひろみのメキシコシティ便り
その4 闇から光を生み出す 

松本裕美(運営委員)
 昔々、光が存在せず真っ暗闇だった頃、神々はテオティワカン(古代都市)の神殿に集まり、光を生み出すための会議をした。結果、焚き火の中に一人の神を捧げることが決まった。火の中に飛び込んだ後に光が燦々と輝くようにと、富と権力を持ち豪華な衣装をまとった若い神が選ばれた。しかし、彼は火に飛び込む間際になって、怖くなった。その後、貧しく権力もないが、とても勇敢な一人の青年神が、自ら火の中に飛び込むと申し出た。神々はそれを認め、青年は火の中に飛び込んだ。そして太陽が生まれた。最初の候補者であった青年はその光景をみて、自分が飛び込まなかったことを恥じ、その直後に火の中に飛び込んだ。そしてもうひとつの太陽が生まれた。しかし太陽がふたつあってはいつも昼間で困ると、一番長老の神が白いウサギをふたつめの太陽に投げつけた。と、ウサギは太陽にくっつき、たちまち太陽は白くなり、月が生まれた− 
 週末、仲間とテオティワカン遺跡に行ってきた。その仲間が、テオティワカンには太陽と月の伝説がいくつもあるが、「この伝説は素敵でしょ」と言って教えてくれた。テオティワカンは紀元前2世紀頃に建造されたメキシコ最大の宗教都市国家で、巨大なピラミッドをふたつ持つ。その中のひとつは、世界で3番目に大きいとガイドブックに書かれてる。日ごろの肉体労働のおかげか、はたまた標高の高さに体が慣れたためか、そのピラミッドに疲れることなくヒョイヒョイと登れた。頂上では、すがすがしい風をまとうことができて、とても心地良かった。そして久々にメキシコシティの大気汚染カプセルから抜け出し、澄んだ空気を存分に味わうことができた。
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太陽のピラミッドから月のピラミッドを望む
 さて、私がボランティアスタッフとして働いているNGO「プロ・ニーニョス」は、男の子を対象に活動している。男の子と女の子が抱える問題には異なる点が多くあるので、それぞれに見合った働きかけが必要だからである。路上で暮らす子どもの7、8割が男の子である、ということからも、男の子を対象として活動する施設になった。
 子どもたちは物乞いや車のフロントガラス拭き、芸、薬物販売、露天商の手伝いなどをして、お金を稼いでいる。また、路上で長期間暮らす子どもの多くが、性産業で働いている。大勢の少年が、おとなの男性に体を売ってお金を稼いでいる。皆が進んで性産業の道に入るわけではない。性虐待にあったことがきっかけになった、性産業で働いている路上の仲間に関係を迫られた、仲間から遊びの一種として誘われたなど、背景は様々だ。ホテルへの宿泊、新しい洋服、お小遣いなど、餌をちらつかせて子どもに関係を迫るおとながいる。
 その子が自分で決めたことで、自分をしっかりケアできるのなら、口を出す必要はないのかもしれない。が、そのことでアイデンティティが揺らぎ、自分は男性が好きなのか、女性とは恋愛できないのかと思い悩む少年たちがいる。また、便失禁や肛門周囲のただれ、感染症などの身体的障害を負う子どもも。そうやって路上生活を続けている少年が「ボクはオカマだ!売春をしているんだ!」と泣きながら叫んでいたことがあった。
 彼はセンターに留まることも、簡易施設に入ることも、家に帰ることもできた。しかし、路上に戻って行った。彼のために何ができるだろう?彼はどうしたいのだろう?悩んではいても、状況を変えることには恐れを抱いているのだろうか。彼の言葉は、私の胸にのしかかったままだ。路上で彼らの心理ケアをすることは困難だが、現状からして一刻も早く彼らのケアができる機関を充実させることが必要だと、日々考えさせられる。
 デイセンター内で少年同士の性的遊びが見られることもある。ある子どもがセンターに来たくても、「路上の彼氏」が見張っていて来させないこともある。薬物と似た面を持つ性の問題。一度味をしめてしまうと、そこから抜け出すことが困難になる。一定期間、集中的に働いてお金を稼ぎ、またセンターに戻ってくる。が、その後再びお金を稼ぐために来なくなる。戻ってきた時、彼らは必死に子どもの面を取り戻そうとしているように見える。子どもに戻るためにセンターへやって来るのかもしれない。放心状態で戻ってくる子もいる。性産業で稼いでいる少年たち、彼らと路上で出会った時、心も体もボロボロで消えてしまいそうな状態にみえる時がある。とても悲しい気持ちになりながらも、「キミには多くの可能性がある」ということを伝える。共に食卓を囲み、遊び、笑い、同じ時をすごしてきた経緯があるから、お互いに悲しい気持ちになっていることが伝わる。それでも、その子が変わっていくことは本当に難しく、時だけが過ぎていく。
 路上で働きかけをする私たちができることは、センターに続けて来る気にさせること、体を大切にするように、感染予防をしっかりするように伝えることだ。またセンター内で、子ども間での性虐待が起きないように留意すること。彼らの変化に気をつけること。
 彼らの脳裏には「今」しかないのだ、と感じる。「今」をどう生きるかは大切だけれど、「この先」をどう生きていくかを考えたくなる「今」になればいいのにな、と思う。
 変化に不安を持ち、路上生活から抜け出せない子どもがいる一方で、みるみる変化していく子どももいる。
 とても幼いにも関わらず、薬物依存がひどく、路上で出会った時はたちの悪い酔っ払いのようだった子ども。最初のうちはセンターに留まっていることも難しく、シャワーを浴び、朝食を食べたらもう路上へ戻る、といった具合だったが、徐々に変わっていく様子をみて、これが彼の本当の姿なんだと感心させられた。
 私たちスタッフは、「強要はしない」、「子ども自身が決めて動かないと結局のところ変わらない」という考え方を持つ。けれど、この子のようなケースでは、自分の意思で、常時薬物にまみれていた生活から数時間離れるということも、普段と違う環境に身を置くということも、とても難しい。だから私たちは、その子が「もう帰るよ!」と言っても、いかに彼の関心をセンターに向けるかということを考えながら、あれやこれやと遊びに誘ったりする。そうやって、日々少しずつセンターに居られる時間を延ばしていく。
 路上チームの私たちは、子どもと最初に出会う。そのため、子どもをセンターに連れてきた場合、その子がセンターの環境になれるようにしばらく彼らと一緒にいる。そして、時間がある限りセンターに行き、アクティビティ外の時間を一緒にすごす。
 たちの悪い酔っ払いのようだった子は、最近では自分ひとりでセンターに来られるようになり、最後まで落ち着いてアクティビティに参加し、冗談を言って私たちを笑わせたり、怒りに任せてスタッフを殴ったり作品を壊したりする他の子に対して説教をしたりしている。
「ちょっと待てよ!ここでは周りの人、スタッフ、子どもを尊重しないといけないっていう約束があるんだ。それにこの作品はみんなが作ったものだ。そんな風に扱っちゃだめだよ。それが守れないなら、ここにはいられないよ」
 何だか一昔前の近所のおじさんのような感じで、ほかの子を叱っていた。それが効いて、叱られた子は静かになった。私は嬉しくて、ひとりにやけてしまった。ただ、一気にすべてが変わるわけではない。
 ある朝、起きがけにすぐさまアクティーボ(シンナーのようなもの)を吸い、ヘロヘロになった彼の姿を見て、悲しくなったことがある。そばに行くと、彼はアクティーボを浸したティッシュをすぐに捨てた。そして怒ることなく、私たちの言葉に耳を傾け、私たちと一緒にいることを選んだ。互いに信頼関係ができているからこそ、気持ちが伝わる。日々変化していく彼の成長をみていて、とても嬉しく思う。少しずつ薬物から離れていくことができている。それを見守っている。
 私は、「絶望を新しい色で塗り、切り開いていく」という岡本太郎の言葉のように、闇から光を生み出した古代の人々のように、子どもたち自身が変化していくことを願いながら、彼らと向かい合っていきたいと思う。   
(まつもと ひろみ・看護師)

Posted by at 15:44

2007年11月25日

2007年12月発行のニュースレターより

11.24メキシコ・ストリートチルドレンと出会う旅・報告会に参加して
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平田敬子
 静かな熱気を感じた3時間だった。報告会は初めてだったが、ストリートチルドレンを考える会との出会いは、昨年6月に遡る。同会が主催したチャリティライブで、知人のお嬢さんがアルパ(ハープ)を演奏するというので聴きに行った。そこで工藤律子さんにお目にかかり、知人を通じてご挨拶した。同じ杉並区にお住まいとお聞きし、初対面にも関わらず親近感を覚え、またこんなに華奢な女性のどこにあのようなエネルギーがあるのだろうと驚きの気持ちでお話したことを記憶している。同時に、工藤さんとはまたいつかどこかでお会いする機会があるのではないか、いや、そのような機会を作れるのではないか、という期待を持った。
 私は平成14年から、杉並区教育委員会の委託で「学校教育コーディネーター」として活動している。区立小中学校を支援するため、主に「総合的な学習の時間」で、教員の求めに応じ、学校と外部人材の橋渡しや、授業そのものの企画を提案するのが仕事だ。今や学力低下の原因かのように見られ風当たりも強い「総合」だが、教科にとらわれず、あるいは各教科を横断的に扱い、子ども自らが課題を見つけ、調べ、発表する授業は、やり方さえ工夫して取り組めば、大きな成果を得ることができると信じている。決められた教科書はない。教員は子どもの発達や興味に応じ、環境、福祉、国際理解、伝統文化など、様々なテーマで授業を組み立てる。その際に協力してくださるのが、地域のおとな(杉並区では「学校サポーター」と呼ぶ)だ。企業やNPO、その道のプロ、○○の達人もいれば、昔を語ってくれる古老もいる。経験豊富な方々に接し、子どもたちは教科書以外から多くのことを学ぶことができる。そのパイプ役
がコーディネーターだ。
 自分の紹介はここまでにして、本題に戻る。工藤さんとの再会はこの秋に実現した。私が担当する小学校の6年生が、「平和」をテーマに学習することになった。担任から相談を受けた私は、授業のゲストとして迷わず工藤さんを紹介した。「平和」を考える際、私たちは無意識に、その対極にある「戦争」を思い浮かべる。だが現代の小学6年生に戦争を実感することができるだろうか。また、戦争のない状態が果たして
「平和」なのだろうか。私のそんな思いは、担任も同じだった。こうして、工藤さんの小学校での授業が行われた。今回の報告会へのお誘いは、こうした経緯からだ。
 この日の報告者6名は、この旅で、濃密で貴重な経験をされたようだ。本を読んで得た知識と実際に現地を訪れて体験したことでは、理解に大きな差があるのは言うまでもないが、旅に参加した動機は様々であっても、皆さんのお話を伺って感じたのは、決して観察者として研究対象を見るような姿勢でそこに居たのではないということだった。同じ人間として、などという言い回しでは、私自身の見識が疑われそうだが、彼らがメキシコという国と、メキシコの人々に、実に真摯にひたむきに向き合っている様子は、「日本の若者、やるじゃない!」とでも言いたい感動を与えてくれた。
 メキシコの状況は悲惨だ。親から子へ、その次の世代へと、貧しさの連鎖には出口がないようにも思える。支援する人々の献身的な活動をもっても、現状から抜け出すことができるのは限られた人数でしかない。国民を充分に守れない国があるとき、世界はどんな行動をとればいいのだろう。子どもを宝物のように扱う国がある一方で、親から見離され、路上で必死に生きる子どもがいる。様々な社会問題を解決しようと政府は動いているのだろうが、その間にも多くの子どもが生まれ、成長し、大人になってゆく。すべての誕生が祝福され、慈しまれて育ち、夢も希望もある将来へと思いを馳せることのできる社会は、いつ訪れるのだろう。その国の経済力や国際競争力が向上すれば解決する問題なのだろうか。そう考えたとき、恐ろしい予感(未来図)が頭をよぎる。
 日本はどうなのだろう。工業製品に囲まれた豊かな先進国日本で、子ども、高齢者、働き盛りが自ら命を絶ち、若者が職に就けず、広がる経済格差は学歴格差を生み、行き場のない人々がネットカフェで寝起きする。でも社会は、この現実に向き合ってはいないように思える。そんな現実は「ない」と思い込もうとしているようにも見える。
「ない」のだから、対策も支援の必要もない。「ない」ことにされてしまっている現実、「いない」ことになっている弱者。大学4年の男子学生の報告は、強く印象に残った。もはや子どもの年齢ではない路上生活の青年に出会った彼が、日本の同世代とわが身を思って「鳥肌が立つ」程の恐怖を感じた、という感想を聞き、考えたくはないが、私の心に闇が広がっていくようだった。
 メキシコと日本を比べてもあまり意味はないのかもしれない。国の成り立ちや歴史、主義や制度の異なる二国の違いを論じて見えてくるものがあるとしたら別だが。でも、子どもはどうか。どんな国に住み、どんな環境で暮らしていようと、子どもには等しく幸せを求める権利があるはずだ。それは本来、親が、親がいなければ他の誰かが、大切に守って手渡してあげなければいけないものだ。
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 おとなとして子どもに、私も手渡すことができるだろうか。まずは伝えること。メキシコを旅した彼らの言葉を、次の誰かに伝えることから始めようと思う。報告してくださった皆さん、工藤さん、ありがとうございました。
 (ひらた けいこ・杉並区学校教育コーディネーター)

Posted by at 15:47

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