連載「サポーターフレンド・プログラム」に参加して 
〜それぞれの思い〜

 

 私たちの会が約2年前から実施している「サポーターフレンド・プログラム」の状況を知っていただくために、このプログラムに参加している日本人のみなさんに、リレー形式で感想文を書いていただくことになりました。
 「サポーターフレンド・プログラム」とは、メキシコシティにあるNGO「カサ・ダヤ」に暮らすシングルマザーの少女と日本人の間でメールを使った交流をするプログラムです。現在、それぞれ18人の間で、1〜2ヶ月に1回のペースで、メールのやりとりが行われています。(日本人側からはそれに加えて、各少女が施設を出る時の自立支援金として、年間約100ドルが寄付されています。)
 路上や貧困家庭で性的虐待を受けるなどして望まない出産をした少女たちは、「カサ・ダヤ」で子育てをしながら共同生活をおくるなか、身近な人とは話し辛く、遠い友人とメールで話すほうが気楽なこともあるだろう。海外に友人を持つことで、自分自身に自信を持ち、より広い視野に立って人生を考えることができるかもしれない。日本人も、直接一人の少女と交流することで、「ストリートチルドレン」やその背後にある様々な問題を、より深く見つめることができるのではないか−− そんな思いに基づき始まったこのプログラムに参加しているみなさんは、それぞれどんな思いを抱いて交流を続けているのでしょうか?それぞれの思いをつづっていただきました−−−−
 
[その2 宮田真理子さん(会員)]“友だちになろう!!!” 

 今回、会の比較的新しい取り組みである「サポーターフレンド」について、私の経験したことを少しばかりお話させていただきたいと思います。さあ、気持ちを「カサ・ダヤ」の少女たちに向けて…

私が「サポーターフレンド」をきっかけに知り合った友人は、肝っ玉母さん感すら漂うラウラ。彼女は、私より3つくらい年下なので、文通を始めた2年前も、既に年齢的には普通の施設にいられる「18歳」を余裕で超えていました。ただ、「カサ・ダヤ」の場合は、自立するまでは、ということで受け入れてもらっていたわけです。彼女の自慢は何といっても愛娘のアレハンドラ。今、小学校低学年の年齢です。ダヤの少女たちは皆子どもたちをかわいがりますが、ラウラは中でもとりわけ娘を大事にしているお母さんです。一方、人間関係が少し苦手なところもありま     した、まだ子どもっぽく甘えん坊な面も持ち合わせています。そんな彼女のことを、私は友人としてとても愛おしく思い、そして尊敬しています。

「サポーターフレンド」をして一番良かったこと。それは、ラウラについて、こんな風に語れるようになったことです。実際、月に一度のメール交換では、内容の濃い会話をしたり、距離を縮めたりすることは結構難しいです。私の場合もそうでした。

ここで、少し私のバックグラウンドと、なぜサポーターフレンドの企画に参加したか、をお話したいと思います。私は、1999年に、工藤さんの本を読んでどうしても気になった「ストリートチルドレン」のことが知りたくて、会に入りました。その直後から2000年前半の約一年間、メキシコシティへ留学し、滞在中は、会が最も古くから付き合いのあるNGO「カサ・アリアンサ・メヒコ」で半年間、ボランティアとして活動しました。そこでは、路上の子どもたち、施設に入ってからの子どもたち、そして、実家へ戻ってからの子どもたち、といろんな素顔の子どもたちや、彼らを取り巻く人たちと出会い、学ぶことができました。

「カサ・ダヤ」のことは、メキシコ滞在中に合流(通訳補助として参加)した会のメキシコツアーの際、工藤さんから教えてもらい、帰国前に一度一人で訪ねてみました。創設者のママ・ビッキーさんというカリスマ、シングルマザーに焦点を絞ったユニークで内容の濃い支援活動内容、そして少女&ベビーたちの心地よい歓迎がとても印象的でした。

その後、社会人になり、ほとんど自由な時間が取れなくなってしまったのですが、時々帰りたくなり、メキシコを訪れた際はできるだけ「カサ・ダヤ」にも立ち寄るようにしています。知っている子が一人でもいればとても嬉しくなります。何より彼女たちは、私よりずっと幼くして私はまだ未体験な母親であり、私よりずっと過酷な人生を歩んできたのに私より優しく、あそこへ行くといつも勇気を与えられるのです。そんなわけで、「カサ・ダヤ」とそこに住む少女たちは私にとっていつも気になる存在です。「サポーターフレンド」は、そんな彼女たちと日本に暮らしながら、メールでつながりが持てる、という企画。2年前に企画話を聞いた時は、こんな素敵なチャンスはないと思い、すぐに飛びつきました。 

そこで私に紹介されたのが、冒頭で述べたラウラ。彼女のことはそれまで知りませんでしたが、即『勇気ある母親になりたい』(工藤律子・著)の中に彼女の名前を見つけようとページを繰ったのを覚えています。

    

 自己紹介から始め、数回メールの交換をしました。彼女と娘の写真が送られてきた時は嬉しくて、机の前に飾りました。ところが、数回目のメールで突然お別れを告げられることになります。メールにはとても急いだ様子で「突然だけど、ダヤを出ることになったの。叔父さんの家へ戻るのよ。だけど、あなたとのコンタクトを失いたくない。良かったらここへ連絡してね」とありました。それは電話番号だったので、私は、「もちろんよ。私もこれからも連絡を取り合いたい。いつでも、またメールでも手紙でも書いて」と自分の連絡先を送りました。それを彼女が見たのかどうかは分からず。結局、しばらく連絡は途絶えてしまいました。一度も会ったこともない彼女に、日本から、おじさんの自宅へ電話をかけるのもためらわれたのです。

 そんなある日、仕事の出張でメキシコへ行くことになりました。「ラウラに会おう」私は、決めました。以前もらった連絡先を確認し、メキシコについたら、すぐにホ

テルから電話をかけました。おじさんが出て、彼女を呼んでいます。とてもどきどきしましたが、ラウラはどうやら私が何者であるか、思い出してくれたようです。とても驚いていました。そして、私は遂にラウラとアレハンドラに会うことができました。ラウラはちょっと照れていて、そしてアレハンドラは無邪気にお出かけを楽しんでくれました。ラウラご自慢も納得。本当に可愛い女の子でした。半日でしたが、一緒に公園へ行き、アヒルを眺め、ピエロの大道芸を見て笑い、一緒にご飯を食べました。ラウラは就職先が見つからず、少し悩んでいるようでした。でも、私たち3人は、直接出会えたことを心から喜びました。

 その後、メールでのやりとりができるようになりました。距離は前と比べてぐっと近いものになりました。そして、それ以降、ラウラも感情を(良いものも悪いものも)正直に出してくるようになり、私も、それに対して、ぐっと感情移入して返事を書くようになりました。

 最初の頃、私がとても心配したのは、家を飛び出して就職先もなしという状態に陥っている、というラウラからの知らせ。すぐに会いたい、お金もない、何とか助けて欲しい、とも言ってきました。この時は私もちょっと参ってしまい、即答を抑えました。そして考えて、叱咤も交えた真剣な返事を出しました。人間関係で嫌なことがあるのは分かるけど、もう少し堪えて、がんばってみようとする努力も必要では?だって、あなたがしっかりしなければ、アレハンドラはどうなるの?娘のため、そして自分自身の自立のためにがんはって、と。私はずっと友人ではいられるけど、二人の人生はあなた自身にしか支えられない、と。今思うと結構厳しいことを言ったかもしれません。でも、ラウラは私のメッセージに耳を傾け、しっかり受け止めてくれたようでした。

 その後、会いたい、とはいうものの、あの時のように、私に甘えたり、変に頼ったりするような口調はなくなり、その代わりに、娘がいてくれることが本当に励みになっていること、娘には自分しかいないから自分が幸せにするんだ、という強い母としての感動的な言葉を聞かせてくれたりするようになりました。そして、毎回、友だちでいてくれてありがとう、ということを言ってくれるのです。ラウラのような境遇にある少女は、恐らく私たちが想像できる以上に、何でも話せて相談にのったり、アドバイスをしたりしてくれる人がいないのだろうと思います。そんな中、私を信頼して、いろんな悩みやうれしい感情を打ち明けてくれるのは、とてもうれしいです。一方、そんな彼女への発言は、とても責任が重いことを認識して、言葉を選び、想いをこめて文字を送ります。

 それでも相手の反応は突然途絶えてしまったりもしますし、不安定要素はたくさんあります。私とラウラのケースは、サポーターフレンドの枠から更に広げられた特殊なケースかもしれませんが、メール交換だけをしている場合でも、彼女たちにとって、私たちと交換するメールの重みは変わらないと思います。

今、私には新しいサポーターフレンドができました。新しい友人ロレーナとは、まだ最初の一通を交換しただけでほとんどよく知らないのですが、これからも、「文字でも心を通わせる」体験を重ね、空間を越えて学び合える友人をまたつくってゆけたら、と思います。

そして、今後はぜひ、他のサポーターフレンド参加者の方のエピソードや、まだ実際に経験されていない方たちからのご意見・感想などを集めて、この企画をもっと盛り上げていけたらいいなーと思います。友だちになろう!!!          

                         (みやた まりこ・会社員)

 

   

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