【2011年05月29日】
フェアトレード商品の品質
さて、前回フェアトレード商品の品質に対して対価を払うべきと書きましたが、その続きです。
フェアトレード商品は高いのに品質が低い、ともっぱら言われてきました。
事実、過去において手工芸品でそのような商品をよく見ることはありました。
フェアトレードが西洋のキリスト教圏で始まり、チャリティーがその精神の基本であったため、商品の品質が前提でなく、支援が前提であったためです。言い換えれば、支援なので商品は何でも良かったのです。しかしながら当然それは長続きしません。現実として初期のフェアトレード商品の取引量は年々下がり続けていました。
さらに問題なのが生産者に対する購入者の見方が変わってしまうことです。
第一次産品で言えば、一定の価格を保障して貰えたり、定量の買取が保障されたりすることで、生産者の向上心が無くなり、品質の低下に繋がります。
手工芸品などで言えば、品質よりチャリティーが優位に立つため、これも支援慣れとなることになり向上心が薄れます。
ではフェアトレードは間違いなのか?
ここで大切なのが、フェアトレードが支援が第一義の目的でなく、品質向上が第一義となるべきであったと言うことです。
品質向上の為に必要なことは生産者がよい製品を作ることが出来る環境です。
子どもを学校に通わせること、女性が社会に出られること、生産者自身が教育を受けられることなど、その環境づくりをすることが品質の良い製品を作る条件になると言うことです。
もちろん最初はある程度の支援、投資が必要になりますが、その環境づくりにお金を使えるように、生産者は努力をし、良い品質の商品を作らなくてはなりません。良い製品に対して適正な価格を支払えるシステムと価値観を構築していくことが大切です。
そうする事によりフェアトレード商品は品質が高く、買う人もそれに見合った金額であると納得がいくのです。
事実、福猫屋で人気のあるフェアトレード商品として、パレスチナオリーブオイルや石けん、チョコレートなどがあります。これらの商品は、フェアトレードであるからという事でなく、その品質で購入されていると思います。なぜならリピート率が非常に高いということと、実際価格としても一般商品よりは高いのですが、グレードからすると安いという納得感があるからです。
そして持続可能な生産手法、有機農業であったり、伝統的な技法であったりとすることで、社会的にその価値を見直され、必要とされるようになってきていると感じます。
しかしながら、現実としてまだ品質と価格が伴わないものも多くあります。
たとえば、大手カジュアルブランドの衣料品とフェアトレードの衣料品で同じアイテムを作ったとすると、カジュアルブランドの製品はデザイン品質とも高く、かつ価格も安い。反対にフェアトレードの衣料品はデザインも悪く品質も低いのに価格は高いと言うことになります。
だれもフェアトレードの物は買いませんよね。
事業規模の違いがあるので当然ですが、ではどうするか。まずは同じものは作らないという事です。手仕事や伝統的な手法など異なる価値を活かす事です。
NGOは支援のプロですが、アパレルの専門家ではありません。洋服一つ作ったことの無い学問肌の人間に、衣料品の企画販売マーケティングが出来るはずがありません。(これは批判ではなく分野が違うと言うことです)
ですので、いまだに職業訓練の製品を高値で売っていたりするのです。職業訓練はプロジェクトで出来た資金で運営し、製品は熟練専業者の工房で作るのが当たり前、と考えるのが一般の私たちの価値観だと思うのですが、NGOの方には、残念ながら結構そのあたりが分からない場合があるです。
最近やっとデザイナーと提携する団体も出てきましたが、現状ではまだ、良くてもパタンナーを抱えている程度というのが、いまの日本のフェアトレード団体の現状です。
その理由として日本のNGOが、フェアトレードという概念を最初から持っていなかった場合が多いからです。それは様々な人道支援などから始まり、支援として現地製品の販売をはじめた団体が殆どなのですが、その活動をフェアトレードという分野に移行させるという意識が無かったからです。
フェアトレードという言葉が独り歩きし始め、その言葉に便乗してきたような状況であることは否めません。事実、自分たちの販売活動はフェアトレードではないといっていた団体が、今ではフェアトレードという文字を頭につけている事もあるのです。
餅は餅屋というよい言葉が日本にはあります。プロジェクトの立案と商品の企画は別の専門部門で協働していくべきであると思うのです。そうならなければ、いつまでたっても価値ある製品として市場に出て行くことは出来ません。
日本のフェアトレードをどう変えていけるのか。
それは生産者の自立よりNGOの自立を求めることかもしれませんね?!
Posted by fukunekoya at 22:49
フェアトレード 批判
5月はフェアトレード月間でした。
ということでフェアトレードについて少々。
最近ではスーパーやデパートでもフェアトレード認証マークのついた商品を良く見ます。
十数年前では考えられない事でした。
フェアトレード商品の取引量が増えると言う点では歓迎すべきことでしょう。
しかしながらこの事は不思議でもあるのです。以前、企業の方々はフェアトレードについて批判的でした。一番の理由としては、「フェアトレード」を認めるとすると、自社商品が「アンフェア」ということとなりマイナス評価を得ることになるからです。
ところが近年、認証マークが出来たことで、いきなり大手企業がフェアトレード商品を出し始めたのですが、フェアトレード商品を出すことは、同じ会社の他の商品はフェアトレードではない、つまりは生産者の負担の元に生産されている商品と肯定することに変わりはありません。
なぜ自社製品を否定するようなことが出来るのか、不思議で仕方が無いのです。
フェアトレード商品を販売するのはプラスイメージを顧客に与えると言うことでしょうが、それはフェアトレードを顧客が付加価値として認識することが出来ても、フェアトレードその物に対して充分な認識を持つことは無いと、企業は判断しているからでしょう。
フェアトレードマークには区別できるというメリットもありますが、コストがかかる事や、顧客がフェアトレードの意義を理解できなくても付加価値として販売しやすいというデメリットもあります。
最近では、古くから活動しているNGOのフェアトレード商品であっても、認証が無いのでフェアトレードの根拠が無い、というお客様もいらっしゃる位です(通常NGOは認証を取ることはありません)。
これでは認証の意味が本末転倒していると思うのです。
認証マーク付きとマーク無しの商品を同じ会社が同じ棚に並べることは、やはり不可思議な現象としか思われません。この点で認証のあり方をもう一度検討して頂けると嬉しいのですが・・・。
さて、フェアトレードに対する批判の具体的な理由である、フェアトレードの概念にある一般流通の否定は正しい面もあります。
よく書かれている事に、「中間搾取を無くす」と言う言葉がありますが、これは流通における中間業者があたかも不当に生産者を搾取しているかのような印象を与えます。
そういった場合もあるでしょうが、必ずしもそうではないことも多いと思います。組合などではない小規模農家では中間業者が無くては商品を流通に乗せることも出来ませんし、中間業者そのものも弱小である場合が多いのです。
中間コストの削減は、NGOや政治より企業が頑張っています。
価格決定権を持つのは最終段階の多国籍企業ですが、その価格を決定させるのは消費者でもあるという事実は否めません。最終価格を安くと望めばその分が生産者にしわ寄せとなるだけなのです。
そして、もう一つの批判理由である、競争原理の欠如による品質の低下ということも正しい面があります。欧米の基本的な立場はチャリティーであり、そのことに基づく価格保障や買い取り保障は生産者の意欲を低下させ、支援慣れと言うデメリットに繋がります。
本来、対等な立場であれば、努力と品質を伴わない商品に高値はつけるべきではありません。品質が悪ければ価格を落とし、努力により生産された品質の高い商品については正当な価格を支払うという競争原理こそがフェアトレードであると思うのです。
つまりは投機や多国籍企業の、力による不当な価格設定ではなく、品質に基づいた正当な価格設定が求められているだけだと思うのです。
上記の点から考えても、一般的なフェアトレードの概念である、支援による生産者保護は初期段階であり、安定してきてからが本来のフェアトレードになると言えます。
フェアトレードは最終手段ではありません。最終的にはフェアトレードという言葉そのものがなくなることが大切では無いでしょうか。
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Posted by fukunekoya at 17:19
【2011年04月24日】
1日100円生活、あなたはできますか?
1日1ドル以下の生活をしている人は10億人とも12億人とも言われています。
そして世界の富の80%は世界の20%の富裕層が所有しているという事実は皆さんご存知の通りです。しかし、その20%に私たちも含まれているということを忘れてはいませんか?
簡単に言えば同じ日本国内で月の手取り20万円をあなたの世帯が得ようとすれば、8割の世帯の人たちは月12,500円しか得られないということと同じなのです。
月20万ではろくな生活ができないと思い、さらに収入を得ようとすれば、12,500円しか得られない8割の方たちはさらに少ない手取りになるのです。さらにその収入で家族4人が生活するとすれば、一人一日100円以下の生活費になります。
つまり日本人である、あなたが経済的に豊かな生活をするためには、世界の8割の人たちに苦しい生活を強いなければならないということです。一日100円の生活、同じ生活をあなたは出来ますか?
それでは他の人たちももっと収入を得ればよいと思うかもしれませんね。少ない収入の人たちも自分と同じ収入になれば問題はなくなると。世界の経済的に貧しい人たちの収入を上げればよいのだと。
けれども良く考えてみてください。世界の資源が限られているように全ての物の絶対量はきまっています。お金も例外ではありません。給与を全体で100万しか払えない会社が10人の社員を雇えば一人10万円の計算になりますよね。けれども皆が20万を要求すれば200万円の給与が必要です。そうなるとこの会社はつぶれてしまうということになりますよね。つぶれない為には5人を解雇しなくてはなりません。
皆が20%の経済的に豊かな世界と同じ生活をしようとすると、お金だけでなく食料や天然資源、自然環境に過剰な負担がかかり、その果てに地球がつぶれてしまうという結果になるのです。
しかし私たちは「経済成長」ということを良く耳にします。お金は例外的に膨張するのでしょうか?実は世の中のお金は私たちが日常パンを買うために支払うお金と投資に代表される資本の2種類に分けられています。パンを買うお金は現実に存在する物であり、総量は変わりません。しかし、資本は現実には存在せず、コンピューターの中で世界経済の中核として膨張しつづけます。そしてこの資本がお金の95%を占めており、それをコントロールできるのは20%の富裕層だけなのです。
それではこの増えつづける資本はどうのようになるのでしょう?現実に存在しないものはいずれ現実のなかで精算されなくてはならなくなります。20%の富裕層がこの資本を拡大しつづけ、さらに富を増やしつづければ、80%の貧しい人間が、自己の保有するお金以上の代償を現実として精算しなくてはならなくなるのです。
この世の全てはバランスでなりたっています。バランスが崩れるとどこかにしわ寄せがあり、痛みとなります。人の身体も同じですし、地球環境も同じです。
福猫屋ではフェアトレードを推進していますが、フェアトレードとは経済的に貧しい人たちの生活を向上させることだけを目的としているのではなく、お互いの「価値観」を「トレード」し、それを理解し、認め合うことを目的としているのだと考えています。
そしてそれが共に「豊かさ」を共有できる第1歩だと思うのです。
Posted by fukunekoya at 00:10